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Statements / 2018年4期10月15日〜12月17日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2018_04
ステートメント
写真家はハンターのイメージに連想されやすい。ファインダーを覗く姿が獲物を狩るハンターの姿に似ているのが原因なのかもしれないし、撮影が「Shoot」と訳されるのもまたハンターが鉄砲の照準器を覗き込み獲物を狙うイメージをより強く連想させる。戦争と映画は類似的な関係を持っているから撮影を「Shoot」というのかと尋ねられたゴダールは、映画は戦争ではないと答えた。映像は決して戦争でもハンターの猟銃の照準器のメタファーでもない。ハンター的な視線は獲物を殺してその獲物の皮を利用または、その肉を食べるというように、対象を自分の所有物にしようとする視線であり、戦争における兵士の視線もまた敵の兵隊や建物を破壊、占領し味方の橋頭堡を拡大して行こうとする視線であるように、両者は共に対象を所有、領土化しようとする視線であるならば、映像の視線というのはそのような所有意識からは遠く離れた意識なのではないだろうか。
目前の世界を記録してその映像をフィルムや印画紙に定着することは、世界を所有したいという意識よりもこの光景をファインダーで覗くとどんな風に見えるのか、印画紙にプリントするとどんな風に現れるのか、それらの風景がスクリーンに上映されるとどんな風に見えるのかというようにカメラによって現実はどのように変わるのかという、現実世界をイメージと現実という二つに分断化しょうとする意識なのだと思う。肉眼で見ている現実だけが本当の現実ではない。現実は複数のレイヤー構造を持った世界であり、兵士(相手からの攻撃のサインとして目前の世界を認識しょうとする兵士の視線は、現実を複数に意味が絡み合う星座のような構造として認識する。その意味では兵士の視線は写真家の視線に類似するが、兵士の視線は最終的には敵という一つの標的に回収されてしまうという意味では反写真家的な視線ではと思う)やハンター達が一つの世界しか見ていないのならば、写真家は一としての世界を複数に分断して見るだろう。それは現実を同定化し形態化する視線ではない。見る人の数によって現実やイメージが変化するように、複数に揺らいでいる現実の揺らぎを一つの現実に回収させずに、複数に揺らぐ現実へと取り戻すための視線だ。ハンター達は覗いている照準器に映っている獲物に視線を集中していて、照準器のフレームを気にしたりはしないだろう。映像の場合は写っている対象とそれを囲んでいるフレームという両方の存在を同時に意識しなければならず、それもまた一の対象を二として見ることであり、ファインダーを覗くことは、映像の世界では現実をまずイメージとフレームの二つに分断することから始まる。
映像が戦争でも「Shoot=撃つ」でもないのは、カメラの機能は対象を撃つために存在するのではなく、対象をカメラのフレームの中に受け入れるために存在するからではないだろうか。「Shoot=撃つ」という勃起と射精を連想させるようなペニス的なイメージではなく、レンズを向けた目前の全てを受け入れるという受動的なイメージの方にカメラは近いような気がする。荒木経惟がカメラをカマラと言ってペニスを連想させるイメージで語っていたのはペニスに代表されるマッチョイズムのパロディであったし、レンズの長く伸び凸型の形態は勃起ではなく、長く伸びたトンネルのような凹型の穴に近いのではないだろうか。レンズが穴であるなら現実はカメラによって撃たれる対象ではなく、凹型の穴の中に吸い込まれる対象であり、それは受胎やブラックボックス、黄泉の国に引き込まれるようなイメージに近い。カメラは現実を受け入れるための器であり、それは単純に現実を反映するのではなく、受胎されたことで違う現実を生み出す。カメラは現実を標的として狙う銃なのではなく、むしろ現実に狙われる存在なのだ。スナイパーのメタファーとしても語られる写真家の姿は、狙うよりも狙われる存在であり、写真家は撮影の主体ではなく、現実の世界から見られる客体の存在に変質させられる。カメラが勃起したペニスのイメージではなく穴としてイメージされるならば、それは去勢された痕としての穴、何もない空虚な穴であり、去勢されたペニスの痕跡としての穴であるからこそ撮るという欲望が喚起されるのではないだろうか。欲望を生み出すためには何らかの欠損を必要とする。
被写体としての現実が先天的に存在しているわけではない。写真にとって被写体は不動の現実ではなく、カメラが向けられることで生み出された現実であり、映像において現実はカメラが日々作り出しているもので、それは先天的に存在しているわけではない。ある哲学者が言う通り経験によって対象、現実が作り出されるように、対象、現実は主体の経験から生み出される。そして対象、現実を生み出す主体は、先天的に存在する確固たる主体なのではなく、対象、現実を生み出す主体もまたそれを生み出す過程において創造されたものでしかない。現実の対象を統御するために要請された架空の主体でしかないだろう。写真において撮影者という主体は写真を撮ることで生み出された存在であり、架空の主体によって撮影された写真は主体にも客体としての現実にも属さない。
初めてファインダーを覗いたときのことを思い出すと、肉眼で対象を見ているときの感覚とファインダーを覗いたときの感覚の落差がいかに大きいかという驚きだったような気がする。撮影は肉眼でストレートに見ている世界とファインダーを覗いて見る世界を交互に繰り返えさせる。同じ世界でも何故こんなに違うのだろう。ファインダー越しに現れるイメージとしての世界と現実の世界の対比に、イメージと現実の落差を感じる。肉眼で認識された獲物が、照準器を覗き込むことでさらにリアル現れてくるハンターの視線に対して、ファインダーに現れる世界は曖昧にしか見えてこない。見えている世界の全てを捉えていると思わせる肉眼に対して、ファインダーで見る世界は何故こんなに断片化されて肉眼で見ているものの半分も入ってないのかという戸惑いと失望の連続が続くことになる。照準器を「覗き込む=没入」という感覚に対してファインダーの経験は、むしろ気散じの感覚に近いのではないだろうか。それは一つの対象に対する没入ではなく、気忙しげにファインダーを覗いたり目を外したりし、フレーミングを気にしながらフレームの四隅まで見るという撮影行為はどこまでも気を散らしていく感覚であり、ハンター達の没入的な感覚が獲物と自分が一体化していく感覚なのなら、気散じの感覚は自分も含めて対象がどこまでも非中心化されていく感覚なのではないだろうか。一ではなくどこまでも複数に分裂していくこと。そのような反没入的な経験が写真の経験であり、没入しながらも気を散らすという矛盾した行為が同時に現れる体験が撮影なのではないだろうか。
モダニズム絵画が絵の表面に対して没入することを要求するなら、常に現実の影がつきまとう写真はそのような没入を拒否するものであり、現実をどこまでも参照しなければならない写真には、抽象表現主義絵画のように純粋に己のメディウムだけで自立することができない。写真は現実とそっくりに現れ、写真そのものとして現れることができない。参照された現実がカメラを通してイメージ化されるというそれは、参照された現実とイメージというように現実とイメージが常に複数化されているのが写真であり、そのような二重性が抽象表現主義絵画のような没入性を許さないだろう。これは現実のイメージなのだというように、写真は必ず現実の痕跡をどこかに残す。
写真は様々な要素を画面の中に写し込む。見る人にとって写真の中の様々な要素を同時に認識することは不可能に近く、写真を見る視線の動きは写っているものからものへと動き続け、一つの場所に立ち止まることを許さない。ものからものへと闇雲に視線が動き続ける。モダニズム絵画の見た瞬間に何か得体の知れないインスピレーションが瞬間的に襲いかかってくる時間を超越する経験に対して、写真はそのような瞬間の感動ではなく、インスピレーションという絶頂を遅滞させ続けるような持続、瞬間という純粋知覚に対して画面に写ったもの達が次々と視線を妨害するかのように現れ続ける。写真は瞬間という非時間的な凍結された純粋さに対してノイズとして機能するだろう。写真を見る体験というのは、視線を一つの要素に集中させないことであり、次々と現れるものに引きずられるようにして見ることなのかもしれない。
絵画のための絵画、現実の参照を一切拒否して絵画だけで成立する絵画。写真がそのような純粋性を追求していっても現実の影をそこから払拭するのは難しいだろう。現実世界から時間を追放してキャンバスの中に時間を凍結した絵画のための絵画に対して、持続する時間の中に存在する対象を瞬間凍結する写真は、同じように無時間的な存在でありながらも、写真はそれが現実を参照したイメージであるという制約から逃れることができないために、純粋に写真だけで自立することができない。抽象表現主義絵画が今ある現実を参照せずにもう一つの別の現実として自らを表現することができるメディアなら、写真は現実とそっくりであり、現実と同じ臍の緒を共有して生まれたものでありながらもそこには違う現実が現れるというような、参照された一の現実に対してそれが二として現れるというドッペルゲンガー的なものではないだろうか。
鉄と同じように空気に触れればそこから腐っていくことを余儀なくされる印画紙を支持媒体として使用しなければならない写真は、いつかは腐って消えていくという緩慢な時間の流れを最初から自らの体内に組み込んでいるメディアであり、印画紙の持つ物質的な制約から逃れることのできない写真は、現実を凍結させる無時間性と腐敗という進行する時間との齟齬を引き受けざるをえない。写真はそれ自体で完結しない、常に矛盾した要素を要求するものであり、ゆっくりと腐敗し続ける写真は、世界を可視化しそこに定着させたいという欲望とは正反対の要素を抱え込んでいる。
現実の世界に対して遠近法を無視したコラージュのような形に写真は現実を変質させる。パンフォーカスで手前から後ろまでピントが合うことで、手前と後ろの遠近的な関係が崩れ違和感を覚えさせるような撮影方法は、人間の目にとって秩序をなくしたコラージュのようにしかそれは見えないだろう。写真は遠近法を放棄したデタラメなコラージュなのであり、そのようなデタラメないい加減さが都市を撮影するのに相性がよく、カメラは都市を撮るために発明されたものなのかもしれない。都市もまた自然の秩序から離れた人工的に形成されたものであり、空を埋め尽くすような高層ビルが都市から奥行を追放して、古びた商店街やファサードの向こうに現れるビル群が遠近法を破壊し街の景観をコラージュ化する。最新の建築モードから古典的な建築モードまで、あらゆる形式を織り交ぜた都市の景観を撮るにはカメラこそが最適だろう。
写真は現実を忠実に再現するメディアではない。現実の再現であるならば写真は、二次元の印画紙の上に三次元を仮構するフェイクなメディアでしかなく、それはどこまでいっても現実の下位に属する現実もどきの存在でしかないだろう。三次元の現実を印画紙という二次元の表面で三次元のように再現するプリントは、写真を現実に所属させることではなく、三次元に見えながらもそれは二次元の面の上に表現されているという矛盾を印画紙の表面に常に晒し続けることではないだろうか。三次元に見えながらも、最終的にそれは三次元にも二次元にも属さない。三次元でも二次元でもない、写真は三次元と二次元の間の何者かであるべきだ。いつか腐っていくという印画紙の時間を内包していながらも、対象を凍結して無時間の領域に定位させることができるという矛盾を生きることができるように、三次元にも二次元にも、時間にも無時間にも所属しない写真は、ドナルド・ジャッドがミニマルアートについて語った絵画でも彫刻でもない特殊な物体なのかもしれない。
撮影は、撮ろうと思った対象を直視しながらもそのポイントから徐々に意識を外していくことであり、それは対象を凝視するというよりも、対象を拡散するまたは対象に向かう視線を複数に分断することではないかと思う。意識を対象の中心に向けるのではなく、中心から遠くに飛ばすこと。ここと向こうが同時に現れるような視線。ここという場所がそこだけで自立して存在しているのではなく、向こうや遠くという関係によってここという場所が存在するように、対象を把握するには一つの中心だけを見るのではなく、対象のその周りを共に見ることではないだろうか。加藤泰の映画によく見られる構図の一つに、画面の手前にものがあり、その後ろで主人公の人間が動いているという手前と後ろの関係が分断されるような構図があるが、引きと寄りが同時に現れる視覚が必要とされるだろう。画面に写っている要素を同時に把握できない人間の視線は、画面に対してつねに遅滞的な動きとして現われる。手前と奥のものに対して人間の視線は遅れ続け、瞬間的に手前と奥を把握できない人間の視線にとって“対象のその周りを共に見る”ことは、ここと向こうの遅滞的な往復運動の中で見ることではないだろうか。
「見る」という言葉が喚起させる獲物を凝視する攻撃的なイメージよりも、あらゆるものを引き受けるという受け身のイメージとしての撮影。ファインダーを覗いて見ることは、何かに狙いをつけるような能動性ではなく、ファインダーに映る全てのものをコントロールすることができないという写真におけるコントロール不可能性を肯定することではないかと思う。マロニエの樹を意味づけできないままただ見ていることしかできないサルトルの小説では、マロニエの樹は無定見の不気味なものとして現れ、主人公のただそれを見続ける以外に何もできないという受動的な意識に写真は近いのではないだろうか。視線は私の意識という秩序を通り抜けて行く。むしろ写真は芸術における視覚の優位に疑いを導入するだろう。「見る」ことは混沌とした世界を秩序づけるものではない。むしろ「見る」ことは世界に混沌を導入することであり、本来なら意味など必要としないで生きていけるはずのマロニエが不気味に見えるのは、意味づけなければ生きていけない人間の意識が生み出した混乱であり、意味を必要とせず何も考えないでただ充実していた自然に対して意味を持ち込むことで意味と無意味という対立を持ち込む。人間の視線は、むしろ統一した世界を分断するために存在するのではないだろうか。視線が成立するには世界との距離が必要であり、視線による認識が成立するためには自分と世界との距離、亀裂を生み出さなければならない。視線を生み出すためには分断がつねに必要とされる。視線による認識は対象に対して統合ではなく分断を生み出すだろう。認識し意味づけすることは対象を理解するためではなく、無意味なものを発見するためだ。
「見る」ことが対象を意味づけして無秩序な世界に意味の稜線を作るのなら、カメラを通して表現される写真は、そのような稜線を作ることに何の関心も示さないだろう。受動態としての写真はただ目前の対象を無差別に受け入れるだけだ。視線が対象に対する自分の欲望の発露なら、そのような欲望に対してただ全てを受け入れる写真は、デュラスの『ロン・V・シュタインの歓喜』の主人公の女性ロンの存在に近いだろう。自分の婚約パーティーの席上でフィアンセのマイケルが、パーティーに現れた女アンヌ=マリに一目惚れしていつまでも彼女と離れないまま踊り続けるその姿を主人公のロンは見続ける。見ることでしか愛の形態を把握できないロンは、ただ対象を見続けるだけであり、そこには「見られる」という感覚が放棄されている。そのような彼女の視線は、カメラの視線に存在に近いのではないだろうか。「見る/見られる」という関係の中で形成される主体に対して、ロンの「見られる」ことを放棄した視線は、カメラと同じように見ることが主体の形成に結びつかずにただ見ているだけなのだ。ただ見ているだけで内面の充実を欠落させている主人公ロンの欲望は主体を欠落させた欲望であり、欲望することで主体を日々再生産するための装置としての欲望ではなく、欲望が主体に回収されない、主体を欠落したままの去勢状態としての欲望を肯定する。写真において「見る」ということは、ロンの欲望のように去勢された状態でものを見ることなのだ。欲望が世界を「見る/見られる」という非対称的な主従関係に枠組みに回収しようとするなら、ロンの欲望は主体にも客体にも所属することを拒否する視線の非人称的な欲望であり、そこでは視線の交差が存在しないまま「見る」ことがただ受動としてしか機能しないことが望まれる。
視線を対象に向けることは、対象に対する欲望を発動することであり、写真が対象を捕獲するというハンターのイメージで語られやすいのは、対象への欲望=対象の捕獲が撮影だと思われているからだろう。サルトルの『出口なし』では「見る/見られる」の立場に誰が立つのかという視線の主導権が問題になり、または「見る/見られる」という関係が鏡同士を向かい合わせることで入れ子構造のような無限の反射関係のように互いが一つのものに溶解していくというイメージで語られるときもある。対象への欲望が生まれるのは、対象との距離が必要であり、その距離が成立するためには対象から自分が切り離されていることが前提とされる。対象と一致した世界にいるのならそこには全能感しか存在せず、対象に対して欲望が生まれる余地が存在しない。対象から切り離されているという意識が生み出したものが欲望なのではないだろうか。かつて一致していた世界を呼び戻すというノスタルジアに近いその感覚は、世界から切り離されたという疎外感が生み出した欲望であり、私はそこにはいない、切り離されたという不在が対象を欲望しようとする。写真はそのような不在を肯定するだろう。そしてそのような欲望は決して充満されることがない。不在は不在のまま何者によって充満されることもなく、不在のまま現れ続けるのが写真なのだ。
対象を欲望することで主体が生み出されるのなら、主体とはつねに対象との関係によって作られるものであり、ここをこことして認識するには、ここだけではなく向こうという関係によってここが認識されるように、こことしての主体は、対象という向こうの存在によって決定される。主体は関係の中でしか存在しない。欲望もまた私が発動させるのではなく、対象によって発動されるものなのだ。欲望はだから先天的に存在するものではなく、ここと向こうの関係によって作られたフィクションでしかないだろう。対象に対する欲望は私のものではなく、対象のものであり、そのような欲望を主体が要求するのは、主体を構成しなければいけないという対象からの命令によって作られるものであり、主体とは常に空っぽのフェイクな存在でしかないのだ。 写真は欲望を生み出す装置であるのなら、そこに写っているものは撮影者も含めて全員が不在だからではないだろうか。写真に撮られるということは、かつてあったその現実から切り離されたということであり、かつてのその時間に戻りことができない。戻れないという切り離された感覚が欲望を見る人に喚起させるのであり、対象に触ることができずに距離を保ってただ撮ることしかできない写真が、触覚的な欲望を見ている人間に喚起させるのは、そのような距離なのだ。かつてあった現実をリアルに写すことで、そこには戻ることができないという距離を写真は生み出す。それでありながらも、それはもう存在しない現実、触れることのできない現実を精密に写し出す写真は、回帰不可能な触覚不可能な故に触覚的な欲望を引き起こす。
その人そのものではないのに、その人そっくりに撮ってしまう写真は、その人とその人そっくりのものに二重化することでフェテシズムな欲望を引き起こす。貨幣がフェテシズムな欲望を喚起させるのは、貨幣はあらゆるものと交換できる全てのものの代理物でありながら、それ自身は何者でもない空っぽな物だからこそフェテシズムな欲望を引き起こすように、写真もまたそれ自身では何者でもない単なる空っぽの代理物でしかないことがそのような欲望を引き起こすのではないだろうか。それ自身ではなく、それ自身に似たペラペラの紙でしかない写真は、だからこそそのような欲望を喚起させるのであり、空っぽでフェイクな存在としての写真があらゆる欲望を引き起こす。
金村修

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