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Statements / 2018年2期4月9日〜6月11日
ワークショップ開講にあたり 金村修が寄せたテクスト
2018_01
ステートメント
写真は人々に忘れていた記憶を喚起させ、ノスタルジックな気分を感じさる役割を担っている。写真は記憶だという言葉が当たり前のように何度も呟かれ、記憶やノスタルジアを写真の中に発見しようと無意識に努力するようになった。写真に撮られると、なぜ何もかも懐かしく見えてしまうのだろう。写されたすべての対象に対してノスタルジアの刻印を押す。写真に写されれば、ノスタルジアな感情がそこに自動的に喚起される。ノスタルジアは自分の記憶がそこに関係していなくても作り出される感情であり、それは対象との関係から生み出された感情ではなく、写真に写されたことで生まれた感情なのかもしれない。
写された光景は二度と再現できないという喪失感がノスタルジアを喚起させる。“それはかつてあった”のであり、写真は被写体を“それはかつてあった”という喪失の領域に引き入れる。“それはかつてあった”、けれど今は存在しない。すべての被写体を過去の領域に引き込む写真は、前方に向かって進行する生の時間に対し、不在の時間を忍び込ませるだろう。写真は現実の痕跡であり、痕跡が成立するためには、その対象が今は存在しない不在が前提になるから、写真が成立するためには不在が必要とされる。被写体があつたこととその被写体が今はないという不在を写真は要求するだろう。作者と被写体という二項関係で成立するのではなく、作者と被写体と不在という三項の関係によって写真は成立する。
ノスタルジアが失われた世界との合一を目指す運動ならば、それは世界との成就を望む欲望なのではなく、合一できない、成就できないという成就することの不可能性がノスタルジアの欲望になる。世界との不一致がノスタルジアを起動させるのであり、ノスタルジアが要求するのは世界との一致ではなく、一致すべき対象の永遠の不在だ。マルグリット・デュラスの『愛人』の冒頭で出てくる決して見ることのできない不在の写真のようにそれは決して現れてはいけないものだ。ノスタルジアの中心には不在という空白が必ず存在しているのであり、『愛人』の写真のようにそれは具体的に記憶された思い出ではなく、不在、何もない空白こそがノスタルジアを成立させるために要求される重要な要素なのだ。
対象ではなく対象の不在がノスタルジアの成立を基礎付けるのなら、具体的な記憶に対してそれが消滅していくという、記憶と消滅の対立がノスタルジアを形成するだろう。ノスタルジアには、このような二つの矛盾した要素が必要とされる。進行する時間とそれを堰き止める時間の対立は、記憶された思い出とそれらが摩滅されようとする時間の進行との対立と矛盾であり、輪郭がはっきりとした具体的に思い出される記憶に対して消えていく記憶、消えてしまった記憶、思い出せない不鮮明な記憶、ノスタルジアは記憶を定着させるのではなく、記憶の不在がノスタルジアを呼び寄せる。ピントが合っている写真よりも不鮮明でピンボケの写真の方がノスタルジックな感慨を覚えさせてしまうように、不鮮明で周りの輪郭がぼんやりとした、薄れていくような、消えていくような記憶の方がノスタルジアを喚起する。ノスタルジアにとって重要なのは具体的な記憶の輪郭ではなく、輪郭の消えかかかり、覚えていないもはや消滅寸前の記憶の方が重要なのであり、消滅がノスタルジアを呼び込むのだ。ノスタルジアというのは記憶ではなく、記憶が消去されることであり、記憶のないノスタルジアこそが、ノスタルジアの本質的な姿なのだ。記憶されていた思い出が消えていくこと。その消えていく動きがノスタルジアを形成する。
写真は挽歌だとスーザン・ソンタクがいい、あらゆる写真にはノスタルジアが付いて回るのは、写真は消えていくものを嘆くことしかできないメディアだからだ。写真は対象が鮮明に撮られれば撮られているほど、その時の周りにあった記憶が曖昧になる。鮮明に撮られた一枚の写真。時間が経てばその一枚の写真をめぐる周りの環境の記憶は薄れていくことで、写真はその時その場の文脈から解放される。撮影されてから時間がさらに経過した写真は、それが鮮明であればあるほど、周りの状況は霞がかかったように不鮮明で輪郭がぼやける。現実の文脈から切り離された写真。現実から孤立し、現実の背景が不鮮明に変容した一枚の写真は、現実の持続から切り離され、糸の切れた凧のように宙を彷徨い続けるしかない。持続する現実の時間から切り離されることで成立する写真。はっきりと見ていたはずの現実が写真に撮られたことで、現実の文脈から切り離され、断片化されていく。断片化された現実に回帰するべき現実は存在しない。 現実の秩序から切断された写真。それは細部だけが奇妙なぐらいリアルに思い出せるのに、それがどんな状況にあったのかは思い出せないという夢の経験に似ているのではないだろうか。あらゆる細部が現実の秩序の外へ溢れ出る。写真は“時間の蝶番が外れた”世界であり、夢の世界のように写真は現実の記憶の証明なのではなく、現実の文脈を喪失させた記憶なのだ。それは何についての記憶だったのか分からなくなる。記憶が拠って立つ現実が喪失された写真がノスタルジアを要求するだろう。ノスタルジアは、ばらばらに断片化された細部をもう一度統合するためのフィクショナルな装置ではないだろうか。
何の記憶か分からない記憶。所属していた現実の文脈を消去された記憶。それは消されたことが痕跡として残っている記憶であり、何かを思い出すのではなく、何かを消去されたことが記憶される。ノスタルジアとは消去された記憶の痕跡を基盤に成立する。
記憶のないノスタルジアは、個人の思い出に回帰することができない。個人の思い出としてノスタルジアを語ることは、ノスタルジアのわたしによる所有であり、記憶の貯蔵庫の中に閉じ込められた思い出の対象は、不在という空白の影をいつまでも若くて美しい思い出に塗り替えられるだろう。“それはかつてあった”対象が、写真に撮られたことで被写体は忘却の海から助け出され永遠の生命を獲得する。そのような写真はアンドレ・バザンがいうように、モデルが忘却されるという“精神的な死”からの助けになるのだろうか。“時間に打ち勝ちたい”という欲求がモデルの写真に対する要求ならば、写真は進行する時間を堰き止め、防腐処理された屍体のように永遠の美しい姿を獲得する。けれどこの美しさは肉体という実体を喪失した美しさであり、空中楼閣のような美しさは精神的な死を逃れる代わりに、この瞬間はすでにないという喪失を証明することになるだろう。写真における永遠の姿を成立させるには、それはもうないという喪失が前提になり、写されたその瞬間は撮られたことで死ぬ。生き返ることがない代わりに永遠にそこで美しくあり続ける。
ノスタルジアとは対象の死であり消滅することで獲得される。“思い出は虹だから 尊き母を枯れ木に吊るす”と書いた鮎川信夫のように、個人の思い出を殺すか消滅すかしなければノスタルジアは生まれない。“それはかつてあった”ものが何度も現れる展覧会や写真集は、生の再現ではなく、死や不在、空白、消滅がそこに現れるのだ。生き生きした対象の再現なのではなく、それはすでに存在しないという不在の空白が何度も現れる。写っているものは、不在によって形作られた死の痕跡だ。喪失という空白を個人の思い出で埋めてしまえばノスタルジアは成立しなくなるだろう。ノスタルジアは不在という空白を空白のままに置いておく。そこは誰も入れない。見るということは、対象を自分の記憶の領域に引きつけ、理解不可能な空白を埋めようとする行為なら、ノスタルジアは記憶からの解放であり、個人の記憶を消尽することで生まれてくるものではないだろうか。
空白を所有することはできない。空白は名付けられないものの別称であり、名付けられないものを所有することができるだろうか。だから空白が所有されるために言葉や意味でつねに充満状態にされるのだ。言語化不可能だった福島の3・11の風景は言語化され、言語化によって生み出されたイメージは、誰もが了解できる流通可能な商品として世間に供給される。言語化不可能な空白の箇所が発見されると、そこはいつも言葉で満杯にされ、“つながろう福島”というスローガンに見られるように、つながることでその言語化不可能な空白な世界を見えなくさせるだろう。空白の言語化とは、あらゆるものを可視化したいという視線の欲望ではなく、言語化することで見たくないものを言葉の背後に棄却することだ。言語化されないものは見えないし存在しない。言語化の過程で振り落とされた空白はけれどつねに言語の背後に潜んでいる。
震災によって東京と福島の植民地的な関係が暴露されたにもかかわらず、“つながろう福島”という連携の言葉が異常なぐらいに発信されたのは、非対称的な関係で成立していた東京と福島の関係をつながりで埋め尽くすことで、両者の間にあるつながらない空白の部分を隠蔽することだった。電力の供給地として以外につながりの見えない福島と東京の関係を仮構するための言葉だった。つながりはつねに中心にと回帰させる。楕円のような対等なつながりではなく、中心と周縁という非対称的なつながり。つながりたいという欲望が空白を殺し、想像力を起動させる。想像力とは空白を色付けし、誰にでも見えるものに変質させることなのだろうか。想像力は人間の思考の範疇で対象を解釈することであるなら、写真はそのような解釈を拒否するだろう。写された現実は、現実の文脈から切り離された現実の痕跡でしかないように、それは現実と通底しながらもリアルタイムに進行している現実の時間のどことも関係を持てない孤児のような現実だ。写真は世界の文脈の中でつながっていた対象を切り離し強引に単独化させる。世界から切り離された対象は、豊かな関係性から切り離され、言葉が隠蔽していた空白の中に身を置くことになるだろう。写されることとは、世界から切り離され、見捨てられることであり、写真は対象をどこにもつながらない空白の中に棄却する。
ノスタルジアとは前方に進み続ける生の時間を後ろ向きに進めることであるなら、ノスタルジックな感慨は、前進し続ける時間に対して退行という矛盾する時間を生の中に持ち込むことだ。記憶とはそのような矛盾の摩擦地点から生まれるものであり、記憶が満載された貯蔵庫のような実体的な空間が独立してあるわけではない。矛盾する二つの軋轢によって引き起こされた関係の結果によって記憶は生み出される。交わることのない矛盾した時間の狭間に存在するノスタルジア、失った世界への同一化を求めるノスタルジアは、全能感という幼児期への退行であり、それは未来に前進し続ける生の時間を引きとめ、ときには破壊しようとする死の欲望に近いのではないだろうか。世界との一体感は破壊され、もう後戻りすることができない地点に立ったことで初めてノスタルジックな感慨が生まれる。それは破壊を望む願望が生み出した感慨であり、ノスタルジアを望む者は、世界の破壊を無意識に望んでいる者だ。未来に向かって進み続ける生の時間を停滞させるノスタルジア。それは生の時間を摩滅させ、生を死に転換させる欲望であり、進行する時間に対して抗い続け、最終的には破壊の後の沈黙に一体化する願望なのではないだろうか。
金村修

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