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金村修ワークショップ 2017年2期4月10日〜6月12日 / 募集中 ※お申し込みはこちらから
ステートメント
カメラの機能に任せておけば自動的にきれいな写真が撮れる。ピントはパンフォーカスになり、露出はノーマルに設定され、後はプリンターが濁りを自動的に取ってくれれば誰にでもきれいな写真が撮れる。写真において技術というのは、苦労して覚えることではなくなった。カメラに付いている機能で技術はもう十分で、後はパソコン、プリンターの性能によって画質のレベルが決定される。
技術の習得にはそれなりの時間がかかるので、技術の向上と写真の良し悪しが同じだった時代、技術を覚えてそれを自在に駆使できることが写真家の才能なのだと、技術信仰がまだありえた時代、そんな時代がデジタルカメラの出現で終わりを迎えた。みんなが知らない技術を知っているという技術の独占が意味を持たなくなった。価格の高いカメラを買えば画面の質は向上する。写真家のアイデンティティーを技術に求めることがもう成立しなくなった。誰にでもいい写真が撮れるという事実は、誰が撮っても同じということだから、“誰が撮った”の“誰”がどこにも存在しなくなる。作者がいなくても撮れるという作者の不在、作者の抹消をデジタル写真はさらに促進するだろう。
技術の独占状態が崩壊し、写真技術がすべての人間に開かれ、誰にでも上手い写真を撮れることが可能なったとき、上手いとか下手だとかという価値は意味をなくす。下手な写真があるから上手いという価値が成り立つのだから、すべての人間が上手い写真を撮れるなら、そこにはもう上手いという価値が成立する余地がない。価値は差異によって生まれるものであり、差異のない状況で生まれるものは退屈な均一性だけだ。デジタル写真は退屈な均一性をその根底に抱えている。作者の不在と均一化される写真。それはほとんど何もない荒野のようだ。
上手さの飽和状態化としたコンテスト写真が、上手い写真の残骸でしかなくなったように、デジタルは技術を残骸化するだろう。写真が上手いということが作品の問題ではなくカメラの機能の問題でしかなくなり、技術があるかないかの問題は機械の優劣の問題でしかなくなった。技術はかつて写真の中で、唯一人間の手の痕跡を感じさせる領域であり、カメラという機械を操る人間の手という、人間がまだ機械に対して主体的に振る舞うことができるという幻想が成立していた領域だった。人間という主体に対して、技術は手段であるという関係性はすでに崩壊し始めている。技術こそが新しい主体であり、人間はその新しい主体の元で下僕のように振る舞う以外に何もできなくなるだろう。
飛行機や大砲といった新しい戦争技術を20世紀の芸術そのものだと礼賛した未来派は、技術を人間よりも上位に置くことで、芸術から人間を追放しようとした。未来派の技術礼賛は、最先端の技術によって人間の生を根こそぎに剥奪しようとした第一次世界大戦の現実を礼賛することになるだろう。「戦争は美しい」と宣言した未来派は、有機的器官で構成される人間の肉体ではなく、鋼鉄の肉体を持つロボットを肯定する。人間よりもテクノロジーをそれは肯定することであり、手段としてのテクノロジーが人間の立場を押しのけて主体の立場につくことを要求することだ。戦争技術の進歩が、戦争の主体を人間ではなく技術に明け渡す。人間はたんに交換可能な機械の部品でしかないだろう。
二十世紀初頭における写真の登場は、芸術から人間の手の痕跡の縮減または追放を要求した。けれど写真の歴史は、手の痕跡がそこに保存されているかのような幻想をいまだに与え続けている。人間の手を追放しようとする写真の本性を誰も見ようとしなかった。その本性を隠し続け、人間が主体的に操れる芸術のように写真を偽装させた。作者の感性を賛美し、プリントから作者の手の痕跡を発見しようとし続ける。写真の裏側には写真家の心情があるかのような振る舞いが偽装されていた。
この世界で交換不可能な唯一なものと思われていた“わたしの気持ち”や“わたしの肉眼”の叙情や美しさが、デジタルカメラの均一な表現によって交換可能なものであることを知るだろう。“誰かの気持ちや肉眼”と“わたしの気持ちや肉眼”の間には、どこにも差異がないことを証明する。“わたしの気持ち”や“わたしの肉眼”が選択した美しさは、誰が撮っても同じように写り、あなたじゃなくても構わない、誰が撮ってもいいというところにまで均質化されたのだ。それはもう“わたし”ではない。誰がとっても同じものしか表すことのできない“わたしの気持ち”は、すでに“わたしの気持ち”ではない。それはすでにプリセットされた“わたしの気持ち”だ。“わたし”が撮ったものではなく、誰が撮ったものでもない、カメラがただ撮ったものでしかないだろう。“わたし”は抹消される。個性的なデジタル写真というのはだから形容矛盾なのだ。みんなと同じようにきれいな写真が撮りたいけれど、他の写真と識別できるような個性も欲しいという形容矛盾をデジタル写真は、ローラーで地を均すように均質化する。デジタルは人間の個性を抹消するための装置であり、それは写真がもともと隠し持っていた本性がさらけ出された結果なのだ。
写真は近代のテクノロジーそのものであり、近代的テクノロジーが隠し持っていた世界の均質化と非人間化をデジタルカメラがあらわにし始める。デジタルはだから人間の手のその最後の領域を剥奪するだろう。フィルム写真の中で、いまだに残滓のように残っていた人間の“感性”がそこでは徹底的に排除される。
“感性”というのは、先天的にわたし達に与えられたものなのだろうか。“感性”はそこに始めから存在していたものでも発見されたものでもなく、それは言語システムが製造し、発明したものではないだろうか。そんな“感性”が先天的に人間に備わっているものとして共有されるようになったのは、言語システムが生みだしたロジックによって“感性”に意味が与えられたからであり、理解不可能なものを説明するときに便利なアプリとして使用される。“感性”は、便利なアプリとして、そこで初めて共有可能な存在として流通できるようになった。“感性”はロジックという言語システムによって事後的に製造される。それはシステムの動きによって事後的に操作されたものであり、言語システムというメカニカルなシステムが“感性”を製造した。言語システムというのは一つのテクノロジーであり、“感性”の存在はテクノロジーによって製造されたものでしかないのだ。“感性”はテクノロジーの一種だった。かつてのテクノロジーで製造されたものが、新しいテクノロジーの手によって駆逐されるのは当然のことであり、芸術の根拠として、芸術のインスピレーションの源として存在していた“感性”は、もはや時代に合わない枯渇した源泉でしかなくなったことをデジタル写真は証明する。
すべての人間が上手い写真を撮れるようになったということは、そこに差異が消滅したということであり、それはどの写真もみんな同じに見えるという非個別化を促進させる。デジタル写真には上手いも下手もない。識別できる個性もない。デジタル写真によるそんな技術的価値や個別性の無効化は、写真の価値を支えるものが、写真家の技術や個性ではないことを証明する。価値の源泉が写真家に存在しないならば、写真は一体どこに価値を求めればいいのだろう。
写真の外部から価値を支えるものを招き寄せることで、写真は自らの価値を支え続ける。デジタル化がかなり進行した音楽の場合でも、音楽の価値を支えるものは楽器演奏者の技術に頼っている領域がまだ数多くあるだろうし、絵画に関してもデッサン等の技術がその価値を支え続けている。あるジャンルを成立させるには、そのジャンルを成立させる下部構造としての人間の技術が必要とされるのに対して、デジタル写真の場合は人間の技術を必要としない。音楽や絵画ではかなりの部分で人間の手が使用され、だからこそ人間がそこでは主体的にまだ振る舞えるのに対して、写真には人間が主体的に振る舞える領域がほとんど存在しないのだ。
技術的領域のすべてが機械というテクノロジー任せの芸術が、写真以外にあり得るだろうか。その意味では写真における技術は、近代テクノロジーなのだ。音楽や絵画における技術が近代的な意味でのテクノロジーではなく、手の作業を重要視するという意味ではむしろ錬金術的な秘術に近いのに対して、写真は芸術からその秘術的な領域を追放する。秘術に変わってテクノロジーという近代的な概念が写真の世界を支配する。写真にはだからアウラというものを必要としない。アウラのない芸術が写真であり、それは工業製品のような無記名で没個性的な芸術として現れるだろう。キャンバスに描かれた絵の具のトーンと印画紙が表出するトーンのこの二つのトーンの差異は、前者の美しさが人間の手の痕跡を感じさせる美しさなのに対して、印画紙におけるトーンの美しさは、手の痕跡や作者の美意識の無い、印画紙という工業製品の美しさだ。芸術のアウラを成立させる人間の手を写真は否定するのだ。写真は人間の手という個別性の美しさに対して、既製の工業製品の没個別的な美しさを対置する。写真のアウラは人間の手ではなく、工業製品の美しさによって成立するだろう。
芸術において技術というのは労働に近いものであり、例えば楽器技術の習得過程は、単純労働の過程の退屈さに近い。そのような単純労働的な要素の積み重ねによって技術を習得することに意味を見出せないデジタル写真は、あからさまに人間の手を嘲笑うだろう。練習や習作を繰り返し、それの積み重ねによつで芸術家のアイデンティティーが獲得されるのに対して、デジタル写真はその基礎となる練習や習作の繰り返しと積み重ねという修行的な要素を必要としない。誰でもすぐ撮れるのであり、誰が撮っても同じである芸術に一体どんな修行が必要なのだろうか。デジタル写真の敷居の低さと写真作家として個性を成立させるための困難さは反比例する。むしろデジタル写真においては、修行によって自己のアイデンティティーを確立することが困難になるだろう。写真には個性がないのは、すぐに撮れてしまうからであり、個性が成り立つような修行の場がそこにはそもそも存在しないからだ。
四季の変化を通して一年の収穫を迎える農業のような喜びが写真には欠けている。丹念に手を入れた結果として収穫の時期を迎える農作物は、かつての芸術のような喜びがあるだろう。すぐに撮れてすぐにその場で何を撮ったか確認できるデジタル写真には、一体どんな喜びがあるのだろうか。誰にでもすぐ撮れる簡易なデジタル写真は、人間の手の喜びとして存在したかつての写真を追放するだろう。
写真は出始めのときから個性ではなく、むしろ同質化が要求されていた。誰がアジェやアボットに芸術家の個性を求めていただろう。彼や彼女に求められていたのは作家的な個性ではなくパリの街並みや林立するニューヨークのビル群の光景だった。写真に要求されたことは、現実をそっくりに写すことであり、それが写真に求められたミッションだった。作者の感性ではなく、現実と同じもの、現実と寸分変わりのないものを求められていた。写真は現実の再現であり、現実と同じであることが写真の価値だった。写真の価値は写真そのものではなく、写っている現実が写真の価値を表出する。写真の価値はだから写真の中にあるのではなく、写真が再現し、指し示した現実が写真の価値を決定する。写真が貨幣や言語と共通の性格を持っているのは、どれもそれ自身では価値を表出できないことであり、価値を示すためにはつねに外部の何かを必要とするところだ。
技術による差異化の仕組みを不可能にしたデジタル写真で他者との差異化を図るには、コンセプトやテーマ、または作家の世界観というような写真以外の分野から選択されるだろう。デジタルの出現によって、写真家は写真だけ撮っていればいいという時代は終わった。写真を撮っているだけでは、何かを表していることにならなくなった。ドキュメンタリー監督の亀井文夫がカメラマンというのは目隠しされた馬だと言ったように、撮っているだけではそこに何も生まれない。写真はそれ自体では自立できない無意味な芸術であり、何らかの外部の存在がないかぎり、写真は価値を持つことができない。
写真はそれ自身ではその価値を表明することができない。写真は写真だけで自立することができない芸術なのだ。写真がつねにキャプションという言葉を必要としたのも、言葉という外部がなくては、何を見せているのか分からなかったからではないだろうか。キャプションがなければ、南北戦争の写真を見てもそれは人が行き倒れになっている光景にしか見えない。都会の写真を撮って、その写真に“都会”というタイトルを多くの写真家がつけていたのも、写真は分かりきったことでさえも言葉によって再確認し続けなければ何を写しているのか分かってもらえないからだ。写した被写体を説明するキャプションの力によって成立していた写真は、当初から写真以外の分野に自らのアイデンティティーの根拠を求めていたのではないだろうか。 アジェの写真をキャプションなしで見ればそれがどこか昔の都会らしいということ以外には何も分からない。汚らしい街並みが続いている以外の情報をそこから受け取ることができない。ウィージーの写真も何の情報もなく見れば高級そうな洋服を着た屍体が写っている以外に何も分からない。写真は現実を切り取り静止させ、そこに定着させた。それは現実をより理解するためになされた行為のはずなのに、写真化されたことでよけいに分からなくなった。アーバスのオモチャの手榴弾を持った少年の写真を見て、それが一体何のために撮られたのか、その手榴弾が何を意味するかを理解できるだろうか。写真化することで当たり前だった現実が謎に包まれていく。
言葉なしでは写真は理解することができない。けれど言葉を付け足したことで、写真は理解可能なものになったのだろうか。被写体を現実から切り出すことで成立する写真は、現実から被写体を切り出したことで、被写体の何かを喪失させる。写された被写体は、それは現実に存在していた被写体のよく似たものに変質させられる。だからキャプションでこれは何を写したものなのか何度も確認するようになるのだ。言葉によってその存在を確認される被写体は、もう現実の被写体ではない。
言葉によってそのつど確認されなければならない存在は、すでにそれは何者でもないだろう。テーブルを、これはテーブルだとつねに言葉で確認し続けなければならないのは、テーブルの意味がそこで崩壊しているからだ。テーブルを構成する意味を写真は失調させる。写真は現実を失調させる。
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